信長公記を読む-その1-

本日より毎週、家臣の大田牛一が記した織田信長の一代記歴史資料、「信長公記」について原本の要約を行ないながら解説していきます。よろしくお願いします。

首巻1 尾張国かみ下分かちの事

尾張の国は8つの郡からできていて、上の郡4郡は守護代・田信安が治め岩倉城を構えていた。下の郡4郡は守護代・織田達勝が治め清州城に住んでいた。守護の斯波義統も清州城に住み、達勝がお世話をしていた。
信達の重臣に3奉行がおり、信長の父である織田信秀は奉行の一人であった。信秀は国境近くの勝幡に居城を構えていた。代々武名高い家柄であるが、信秀は特に優れた人物で家中の実力者たちと知遇を結び、次々と味方に組み入れていた。
その後信秀は尾張中央部の那古野に移り本拠とした。このときに嫡男の吉法師(信長)に林秀貞平手政秀青山与三右衛門内藤勝介の4人の家老をつけ、台所方の経理は政秀が兼務した。
那古野では何かと不便であったため、信秀は那古野の城を吉法師に譲り、自分は熱田近くの古渡に城を造って居城した。 台所方の経理担当は山田与右衛門であった。

尾張国における織田信秀のポジションは、守護→守護代(織田大和守家)→奉行。しかも奉行は信秀(織田弾正忠家)ほか織田藤左衛門家、織田因幡守家と3人います。立場はけっこう下ですね。 信秀が統治していた地区は、貿易ができる海上ルートがありました。そのため、おそらく裕福であったと思います。さらに人望厚く、仲間に恵まれていたようです。
那古野城はもともと今川氏豊の居城でしたが、信秀の奇襲により織田の領地となりました。今川との戦対策として信秀は古渡城に引っ越しました。代わって信長が城主となったのは2歳の事です。また信長には平手政秀だけではなく、4人の家老が教育役としており、信長の期待の大きさを感じさせます。英才教育が始まりました。