信長公の政策についてー外交戦略:信長公と寺社仏閣①ー

雑賀衆に代表される石山本願寺との抗争や比叡山延暦寺・恵林寺の焼き討ち、安土宗論による法華宗への弾劾などに代表される寺社・仏徒への対応から、信長公の宗教勢力に対する政策は一様に否定的にとられます。

他方、城郭の周囲には陰陽道になぞらえて四方に守護となる方位神を鎮座します。また京の宿舎に寺社を活用しています。
熱田神宮での戦勝祈願や上賀茂神社への馬の奉納、石清水八幡宮の社殿の建て替え、伊勢神宮への奉納など神社に対して寛容な姿勢も見えます。新興勢力のキリスト教にも社寺領を担保しています。

信長公の思考と戦略はどのようなものだったのでしょうか。社寺仏閣に対する信長公の外交戦略をシリーズで考察します。

Ⅰ.戦国時代における寺社仏閣の立ち位置

戦国時代、寺社仏閣は朝廷も幕府も手出しができない聖域でした(境内都市というそうです)。以下の不入の権が認められており、治外法権の社会が形成されています。

不入権・・・外部権力の使者の立ち入りを拒否することができる権利
検断不入権・・・警察権・司法権の行使を拒否することができる権利
諸役不入権・・・租税を拒否することができる権利

門前町で座を開く権利を有し、寺社の実務を司る行人(ぎょうじん)が武装し鉄砲隊を備える寺もありました。行人は寺侍の子弟で構成され、惣分という会議を構成し意思決定を行なっています。お金も人も武器も大量にある集団だったということです。

僧兵(そうへい)とは僧形の武者を差します。主に寺社勢力に帰属した武装集団です。もとは僧衆や悪僧と呼んだようですが、江戸時代以降に呼称を僧兵に統一しました。 武蔵坊弁慶が有名です。ちなみに悪は「強い」という意味だそうです。
神社に帰属する集団は神人(じにん)といいます。神社に属した芸能者や手工業者、商人なども神人に加えられ、やがて神人が組織する商工・芸能の座が結成されます。もともとは境内と荘園の治安維持や他勢力への対抗のために武力を持つようになります。

安土城の石垣を作ったことで有名な穴太衆も延暦寺や日吉大社の門前町出身の石工集団です。当時石垣を有した城郭を持つお城は皆無に等しいですが、寺社仏閣は石垣を備えた建物でした。こうした集団を手元に置けたのも、座を開き裕福だった寺社仏閣のなせる業なのです。

そして禁断の場所に手を入れたのが信長公です。次回は信長公の思考における寺社仏閣について考察します。

wikiより(鎌倉時代の僧兵。袈裟と呼ばれる衣装をまとっています)

僧兵と神人がいた5畿内および周辺の寺社仏閣

白山神社 福井 延暦寺の末寺で8千人の僧兵を抱える。一向一揆により焼き討ち
石動山天平寺 石川 3千人にも及ぶ僧兵を抱えた能登有数の勢力
尾山御坊 石川 加賀一向一揆の拠点。佐々成政に敗れ軍事力を喪失
真宗大谷派井波別院瑞泉寺 富山 越中一向一揆の中心勢力。佐々成政の軍勢により

焼き討ち

雲龍山勝興寺 富山 越中一向一揆の中心勢力。織田軍・石黒成綱の軍勢により焼き討ち
雲龍山本證寺 愛知 三河一向一揆の際に一向宗門徒の拠点の1つ
太子山上宮寺 愛知 三河一向一揆の際に一向宗門徒の拠点の1つ
真宗大谷派勝鬢寺 愛知 三河一向一揆の際に一向宗門徒の拠点の1つ
照蓮寺 岐阜 一向宗の寺院で内ヶ島氏と結託。佐々成政の配下
石清水八幡宮 京都 淀の魚市の専売権や水陸運送権の主力。末社・離宮八幡宮に属する大山崎神人は荏胡麻油の購入独占権を所有(大山崎油座)
上賀茂神社・下鴨神社 京都 琵琶湖沿岸における独占的な漁業権を所有
石山本願寺 大阪 一向一揆を通じて絶大な影響力・軍事力を堅持
談山神社(多武峰妙楽寺) 奈良 興福寺と度々武力衝突
大本山興福寺 奈良 奈良法師とよばれる多数の僧兵を抱えた大勢力。信長とは友好関係
総本山金峯山寺 奈良 吉野大衆とよばれる僧衆を擁する一大勢力
比叡山延暦寺 滋賀 山法師と呼ばれる4千人にも及ぶ僧兵を抱えた大勢力
日吉大社 滋賀 延暦寺の権勢を笠にした京の高利貸しの主力
長島山願証寺 三重 一向宗の寺院。第三次長島侵攻で激戦の末に壊滅
冠峯山三岳寺 三重 滝川一益の軍勢により焼き討ち
高野山金剛峰寺 三重 高野衆とよばれる僧衆を擁する一大勢力。信長勢を撃退
土佛山聖衆寺 三重 滝川一益の軍勢により焼き討ち
風猛山粉河寺 和歌山 粉河衆と称された中小規模の僧兵集団を形成
一乗山根来寺 和歌山 根来衆とよばれる僧兵1万を擁する一大勢力。信長とは友好関係
日前神宮・國懸神宮 和歌山 地方大名に匹敵するほどの武力を所有