信長公の政策についてー外交戦略:信長公と寺社仏閣④ー

Ⅱ. 信長公の寺社仏閣対応について

②信長公の寺院に対する対応

今回は信長公の寺院擁護について考察します。地域により対応が異なるので、それぞれについて見ていきます。

②-2信長公が擁護した寺院

■京における寺院の擁護

天文5年(1536)天文法華の乱で焼き討ちになった法華宗の寺院は天文11年(1542)になり二一本山のうち一五本山が京に戻ります。これらの多くは下京に移転し、堀や土塁などの防衛施設を設け武力を備えます。
一五本山・・・妙顕寺 要法寺 本圀寺 妙覚寺 妙満寺 本禅寺 本満寺 立本寺 妙蓮寺 本能寺 本法寺 頂妙寺 妙泉寺 本隆寺 妙伝寺

また元亀4年(1573)4月、信長公は旧二条城に籠る義昭への威嚇として上京一帯を焼き討ちにします。その後義昭は宇治・槇島城に籠っているところを信長軍に攻められ、京から追放されます。しかしこの焼き討ちは正親町天皇に事前告知(吉田神社の神主)しており、噂話として上京の住人にも伝わります。上京の住人は攻撃を逃れようと銀1300枚を出す用意をしますが、信長公はこの要求を拒否します。ちなみに下京は銀800枚で焼き討ちを免れています。

こうした背景もあり信長公に逆らう寺院もなく、基本的には寺領の安堵をしています。中には信長公の命により、尾張から上京する寺院もありました。 また天正3年(1575)には下京地子銭を得る権利を、信長が妹・犬に与えています。

建仁寺と真如院の枯山水

相国寺と阿弥陀寺

■奈良における寺院の擁護

神国と呼ばれた奈良(大和)における寺院のあり方は他国と異なります。興福寺が強大な権力を振るい支配力を強め(春日大社の実権も握っています)、大和各地の国人衆が在地武士団として力を持ち、それぞれが.興福寺に属する形をとっています。名実ともに支配していたのは興福寺です。また多くの寺院と公家などの土地が入りくみ利権関係が複雑です。
そこで信長公は大きな2つの改革を行ないます。天正8年(1580)に実施した「大和差出」と「一国破城」です。

大和指出とは寺社に対しては旧権限を安堵し、国人に対しては反乱分子の除去など、筒井順慶を中心とした軍事編成の強化のことです。朱印状による安堵により徹底的な破壊には至らず旧来の体制を利用した、まさに再編と呼べるものです。

一国破城とは大和国内の城を大和郡山城を除き全て破壊させるというものです。 300以上もの城郭がありましたが、破城により郡山城を除き総て破却します。

これら2つの改革は、宗教都市大和に対抗できるだけの武家の都市として、一国規模の城下町を建設し成立させることが目的です。 荘園制の中で成長してきた国人を政権により一つの軍隊として筒井順慶の下へ統制させ、商人は新しい都市を基盤とした競争によって新興商人を城下に集めます。職人衆も寺社領も統制され、その経済力を利用することができます。
複雑な支配権と土地制度を有していた大和も、天正8年の両政策による石高と郡山城に集約され、一元的な支配体制が生まれます。

興福寺と東大寺

■愛知における寺院の擁護

尾張統一戦の時に戦場となった上4郡では焼け落ちた寺院もありますが、支配体制が整っていたので寺院による反乱はほぼなく、寺領安堵されています。中には織田家ゆかりの寺院が多くあります。
「清洲町史」によると慶長15年(1610)の名古屋地区にあった寺院数は103寺です。

万松寺の提灯と平手正秀の墓

■岐阜における寺院の擁護

義父・斉藤道山の時代から支配体制は整っていたので寺領は保護されます。一部戦場となり焼け落ちた寺院もあります。
岐阜4仏とよばれる岐阜城下の守護寺院を配備します( 善光寺如来・小熊の地蔵・西野の不動・美江寺の観音)。

崇福寺と円徳寺

■滋賀における寺院の擁護

六角氏、浅井氏との戦い、延暦寺の焼き討ちを経て滋賀(近江)を制圧します。姉川の戦いでは湖北十ヶ寺の僧兵たちが敵勢に加わります。近江の寺院は延暦寺の傘下の寺院が多く、他の宗派に改宗されるか焼き討ちにあっています。

浄土宗の僧・浄厳坊明感(近江・金勝寺)を招き、焼失した慈恩寺の跡地に浄厳院を開きます。ここで天正7年(1579)に浄土宗と日蓮宗の僧による仏教論争(安土宗論)が行われます。 浄土宗が勝ったことを評価し、貞安上人(能登・西光寺→近江・妙金剛寺)が呼ばれ西光寺を開きます。貞安上人は天正15年(1587)に正親町天皇の勅命により信長・信忠公の墓所の一つである京都・大雲院(銅閣寺)を、同年秀吉の命で京都・伏見に勝念寺を開創します。

安土山には總見寺を建立します。通用門である百々橋口から必ず通過する場所にあります。信長公没後、二の丸跡に秀吉により建てられた本廟を、織田家(大和宇陀藩→柏原藩の猶子)が江戸末期まで代々守護します。また寺領を秀吉と徳川代々の将軍から安堵されます。

西光寺と浄厳院

桑実寺と總見寺

信長公により擁護された畿内周辺の主な寺院

亀岳山万松寺 愛知 織田備後守信秀公(信長の父)が織田家の菩提寺として開基
瑞雲山政秀寺 愛知 守役の平手政秀の墓
泉龍山桃巌寺 愛知 父・信秀により開基
蓬莱山徳源寺 愛知 織田家の菩提寺の臨済宗の僧堂寺院
鷲嶺山含笑寺 愛知 織田家菩提寺の曹洞宗寺院。父・信秀が生母を弔うため建立
堅照山廣幢寺 愛知 織田家の菩提寺の曹洞宗寺院
嫩桂山久昌寺 愛知 側室吉乃の墓
集慶山凌雲寺 愛知 信長公が吉法師時代に勉強に通った場所
慈眼山成願寺 愛知 大田牛一が若いころ修業を積んだ場所
常楽寺龍照院 愛知 信長公が社殿を寄贈
長嶋山妙興寺 愛知 祖父・信定により寺領や末寺を安堵
妙光山誓願寺  愛知 父・信秀の援助を得て創建
玉林山誓願寺  愛知 父・信秀の援助を得て創建
智徳山誓願寺  愛知 1545年創建の浄土宗寺院。後に信安夫妻の墓が含笑寺より移築
円徳寺 岐阜 寺領を寄進。楽市楽座を開いた場所
神護山崇福寺 岐阜 菩提所として保護
鷲林山常在寺 岐阜 斉藤家の菩提所として保護。妙覚寺の末寺
安養山光得寺 岐阜 信長が美濃攻めの時陣鐘として使った梵鐘
亀甲山立政寺 岐阜 信長公が放浪中の足利義昭を迎え入洛準備中に宿泊させた場所
洞泉山真長寺 岐阜 信長公が寺領を保護
愛護山善光寺 岐阜 甲府の善光寺如来を信長公が移動した場所
景徳山慈恩寺 岐阜 城下を守る四天王として保護
大日山美江寺観音 岐阜 城下を守る四天王として保護
西野不動尊 岐阜 城下を守る四天王として保護
愛護山善光寺安乗院 岐阜 城下を守る四天王として保護
遠景山總見寺 滋賀 安土山中に信長によって建てられた寺
金勝山慈恩寺浄厳院 滋賀 慈恩寺跡に信長によって建てられた浄土宗の寺
龍亀山西光寺 滋賀 安土宗論時に法華宗に勝った祝いとして信長が安土に建てた寺
長等山園城寺(三井寺) 滋賀 信長公が寺領を保護
大乗山正福寺 滋賀 安土築城とともに創建された寺
繖山桑実寺 滋賀 安土に居をかまえた信長公により保護
南蛮寺 京都 信長の許可を得てイエズス会により建てられた教会
真如院 京都 義昭を招くため信長が造営した庭園
龍寶山大徳寺黄梅院 京都 父・信秀供養を目的に建立した「黄梅庵」を起源とするお寺
蓮台山阿弥陀寺 京都 清玉上人が信長公の帰依を得て坂本より移転
妙泉山寂光寺 京都 碁の名人本因坊
小野山浄慶寺 京都 信長の命により尾張より上洛。檀信徒が安土城天主の天井図を描く
大光山本圀寺 京都 信長により本領安堵。規模縮小
正法山妙心寺 京都 信長により本領安堵
大雲山竜安寺 京都 信長により本領安堵
東山建仁寺 京都 信長により本領安堵
霊亀山天龍資聖禅寺(天龍寺) 京都 信長により本領安堵
具足山妙顕寺 京都 信長により本領安堵
鈴聲山真正極楽寺 京都 信長により本領安堵
八幡山東寺 京都 信長により本領安堵
龍宝山大徳寺 京都 信長により本領安堵
鞍馬山鞍馬寺 京都 信長により本領安堵
醍醐山醍醐寺 京都 信長により本領安堵
瑞龍山南禅寺 京都 信長により本領安堵
洪隠山西芳寺 京都 信長により再建
慧日山東福寺 京都 信長上洛時の宿所
音羽山清水寺 京都 信長上洛時の宿所
具足山妙覚寺 京都 信長上洛時の宿所
華頂山知恩教院大谷寺(知恩院) 京都 信長上洛時の宿所
萬年山相国寺 京都 信長上洛時の宿所
法華宗大本山本能寺 京都 信長上洛時の宿所
東大寺正倉院 奈良 信長により本領安堵
法相宗大本山興福寺 奈良 信長により本領安堵